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〜寺子屋ありがとう〜 コラム vol.17 2012.8

寺子屋ありがとう
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誰かを受け入れる

先日、タイのプーケットまでヨットに乗りに行ってきました。
ヨットに乗りながら、講演や出版の打ち合わせ、講座で使う映像の撮影。
私の中では仕事という位置づけでしたが、誰も認めてくれません。
十分に楽しめましたので、遊びということで構わないのですけど。(笑)

熱帯地方の陽射しをなめていました。
日焼け止めクリームは塗っていましたが、波しぶきや汗で落ちてしまい、肌を露出していたところは火傷状態で帰国。
最近ようやく落ち着き、身も心も一皮剥けた気分です。

先月は自身を受け入れることについて書きました。
自身を受け入れるとは、
『与えられた環境の中で最高に生きると覚悟すること』
私どもの教室ではこのように定義しています。
私どもの教室のと言いましても、この言葉は学生時代に宣教師だった英語の先生から教わったものです。

それでは、自分以外の誰かを受け入れるとはどういうことでしょう。
お子さんのことを専門機関に相談すると、
「子どもさんをあるがまま受け入れてあげてください」
と言われることがあるそうです。
「そんなことをしたらそのままではないですか?」
そんな質問を受けることがよくあります。
誰かを受け入れることと、諦めること、開き直ることを混同されているからこその疑問かと思います。

誰かを受け入れるとは、どういうことをいうのでしょう。
私どもの教室での定義は、
「その人がやったことと、その人自身を分けて向き合うこと」
その人がやったことに向き合うとは、
やってはいけないことをしたような時、ダメなことはダメだと毅然と対応することです。
そして、その人自身に向き合うとは、
どうしてそうしてしまったのか、そうしなければならなかったのか、できなかったのか。
そこを解ろうとすることです。

よくないとされることをした人を目の前にすると、ついその人を裁いたり正そうとしてしまいがちです。
人を変えようとします。
そうしなければならないくらい苦しんでいる人に、寄り添えない時についとってしまう態度です。
人を変えようとする人、される人、双方が苦しさを感じます。
変えようとされる者は苦しさに自分に向き合えず、言い訳したり、隠したり、誰かのせいにしたりします。
その結果として、なにも変われません。

逆に、どうしてできないのか、なぜやってしまうのか。
変えようとせず解ろうとしてもらった時、安心してどうしてできないのか、なぜやってしまうのか、自分も自身に向き合えます。
裁かれなかった方だけでなく、裁かなかった方も楽になるものです。
解ろうとしてもらった時に自分自身に向き合うことができます。
結果として変わることができます。

ではどうしたらそのように、苦しんでいる相手に寄り添えるようになるでしょう。
それは他の誰かより、まずは自分自身を受け入れることです。
そのためには誰かに受け入れてもらう経験をすることが一番です。
誰かに受け入れてもらう経験。
これは、もしかすると裁かれてしかるべきと思われるような状態にならないと経験できないことなのかもしれません。
もしそうであるなら、傷つくこと、苦しむこと、過ちを犯すこと。
意味のないことではないのかも知れません。

『寺子屋ありがとう』を設立する前、私は船員をやっていました。
今も年に数回ヨットに乗せてもらう機会があります。
ヨットのオーナーは、『リング』などを書かれた小説家の鈴木光司氏。
7年前、船会社を退職直後、友人に紹介され氏の小笠原クルーズに参加させていただいてからの付き合いです。
その後もことあるごとに声をかけていただき、同乗させてもらっています。

氏の口癖が、「大丈夫、大丈夫」
体を壊して退職した直後。先の見通しも立たず不安でいたとき、氏と知り合い、ずっとこんな言葉をかけてもらってきました。
なんでも「大丈夫、大丈夫」なので心配になり、なにか根拠はあるのか尋ねたことがあります。
「そういえばないなぁ」
ということでした。

不安で一杯だった退職直後。
大丈夫といわれても、そんなこと思えるはずがないと思っていました。
それがいつのころからか、大丈夫なのかな? 大丈夫だな?
そう思えるようになったから不思議な気持ちでいました。
人はそばにいる人に影響を受けます。
今思えば、決して不思議なことではないのかも知れません。

今回プーケットでご一緒したとき、他のクルーの方に教えていただきました。
「光司さんは大丈夫っていいながら、岸本は大丈夫かなって心配していたんだよ」
衝撃的でした。
思い返せば、他のフリースクールについてワイドショーから取材を受け時。
氏に同行したアテネで強盗にあった時。
私や教室が窮地に立たされるたびに、こんなに面白い話はないと、嬉しそうに笑っていました。
その時はなんていう人だと思いましたが、そんな受け止め方をしてもらったからこそ、私の立ち直りも早かったのかもしれません。

「大丈夫、大丈夫」
もしかしたらこの大丈夫は、なにも起こらないから大丈夫なのではなく、なにがあってもそこから精一杯、最高に生きればいいから「大丈夫」という意味だったのではないでしょうか。
また、「あいつは大丈夫か?」
一見、「大丈夫、大丈夫」とは矛盾する言葉です。
でもこれは、なにかあって私が潰れるのではないかという心配ではなく、なにがあっても大丈夫と気づくことができるのか。
気づけないまま潰れてしまうのではないか。
私にそんな危うさを感じての心配だったのではないかと思っています。

私ども『寺子屋ありがとう』は、10月14日新潟市で鈴木光司氏講演会を主催いたします。
タイトルは「なぜ勉強するのか?」
どうぞご参加ください。

暑い日が続きそうですが、どうぞご自愛のうえお過ごしください。

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